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OCS NEWS -Oct 28.1994
OCS NEWS
10/28/1994 文責:飯村昭子
気の力で難病に挑戦する格闘技の元チャンプ
綾空会 主宰者 新倉勝美氏
勝つことが唯一最高の目的だった空手チャンプが、自分で体得した気の力で、医師の見放した難病を薬なしで治すことに挑戦している。
ミシガン州スターリングハイツでの、一日本人の闘う人生
難病人 千人治癒が目標
ミシガン州デトロイト市から車で約40分のスターリング・ハイツにある「綾空会」合気道道場の朝は早い。8時半に第一番目の“患者”がやってくる。 駐車場に面した道場のガラス窓に人影が見えると、道場の主宰者である新倉勝美氏(50歳)は掃き清めたマットの上に白い紙のテーブルクロスを敷き、どうぞという仕ぐさをする。
横になった女性の“患者”にむかって手をかざし、気を送る。新倉氏の上下の前歯のすき間から激しい吐息の音が響く。
10分足らずの気で、患者の頬は見違えるように血色を帯び、リラックスして見える。
子宮筋腫で医師に手術をすすめられているが、できれば手術をしないで治したいと、これで5、6回気を受けた。「筋腫が信じられないくらい小さく柔らかくなりました。」と嬉しそうだ。
2歳くらいの赤ちゃんを抱いた母親がやってきた。やせたからだは枯れ木のように強ばっている。人形のような無表情な子供を抱きとると、新倉氏は子供をあやすようにして歩き回り、力いっぱい気を送る。数分たって母親の胸に戻ってきた子供は、打って変わって子供らしい表情で体の硬直もとれている。 「センセイから気をいただくとこの子は物を食べてくれるんです。そうしないと食べ物をいっさい受け付けなくて…」
一日約40人から60人に気を送る。医師から見放された末期がん、脳腫瘍、半身不随や性能力の衰えた人、肩の痛みや近視の人など重さはまちまちだ。
ベットから動けない人はこちらから訪問する。こらまでに7人の末期がんを治した。 治療費はタダ。新倉氏に医師のライセンスがないためである。患者はマットの上に敷くベットの代わりの紙代として、備え付けの缶に50セント入れるだけ。
「気を出すととても消耗します。だから食事は1日5回、ちょっと時間があればすぐ横になります。」
収入になる空手や合気道のクラスをやめて気に専念するようになってからは、道場の家賃の支払いも苦しくなってきた。
「でもなんとかして医師の見放した難病を千件治せば、その実績で正式な治療師として認められるのではないかと、その希望で千人治癒を目指してがんばっているところです。」
わが子の脳腫瘍
気の力は風の力であると気づいたのは12歳の時だった。
鳥はなぜいつも決まった木に戻るのだろう、蟻はなぜ自分の体より大きい餌を運べるのだろう、と普通の人なら全く疑問に思わないことばかり考えているうちに、“風の力”ではないかと思いついたのだった。
空気が動くとものを動かす力が出る。それが風だ。体の中にも風があって、それが心臓や血液を動かす。体の中の風、それは呼吸だ。意識して深呼吸し、それを吐いて体の中に風を起こした。
掌からこの力を外に出せる。 そんなことを考える変わった新倉少年は体が小さくて弱く、同級生のいじめの的だった。12歳で格闘技を習い始めたのは、けんかに強くなりたい一念だったという。
空手、合気道、居合道、小太刀、柔道、剣道、槍、その他日本の格闘技はすべて収得した。その段数を全部加えるとで30段になる。
23歳で結婚、24歳でレスリングを始めた。国際空手選手権大会に神奈川県代表として出場し、世界のチャンピョンになったのは1967年、27歳の時である。
農家だった実家の納屋を改造して道場「綾空会」を作り、親のない子供を集めて格闘技を教えた。ケガした弟子の足に新倉氏が湿布すると治りが早かった。
何千回もの試合で負けたのは3回だけという、こわいもの知らずの格闘技のチャンプを突然絶望の淵に落とし入れたのは、7歳の長女佳代ちゃんの病気だった。
脳腫瘍。手術しても一年は生きないだろうと、医者にいわれた。失明の可能性もある。手術後7ヶ月で再発し、その5年間に7回再発を繰り返した。
手術のたびに大量の輸血用血液が必要だった。それを聞いた道場の弟子たちが全員協力を申し出、病院始まって以来の大量の血液が集まった。
初めて人に恩を感じた。 「よし、この子たちをアメリカに連れていってやるぞ。恩返しだ。」
この決心を実行したのは67年夏、16歳から24歳までの弟子百人以上を連れて渡米し、40日間毎日試合をして回り、国際空手試合では、「綾空会」が優勝した。
このツアーは87年まで二年毎に実行した。
重病のわが子を見ながら新倉氏は考えた。動物は自分の子供の病気をなめて治してやる。 戦後の食料難の時代に乳児を抱えた母親は、自分の骨や血を乳に変えて子供を育てた。子を思う母親の愛情がそれを可能にした。自分も愛情でこの子を救おう。
深呼吸で宇宙の気を腹にため、長い吐息と共に気を掌から送り出した。治ってほしい、必ず治してやるとの願いを込めて送り出した気は、長女の体内に移り、病状はみるみる回復した。長女の難病が気を治療に使うきっかけとなった。
手術なしで潰瘍が消える…医師には信じられないことだった。まして気などという治療法は…。
「気は愛情でした。そしてエネルギー(生命力)でした。」
中国などで行われている気功というものを知るにつけ、自分の気と似ていると、新倉さんは思う。
「しかし、私の気の10パーセントくらいの力しかないと思いますよ。」
気は超能力ではない
本格的に渡米したのは83年。ミシガン教育委員会に空手の教師として招かれたのだ。永住権も得た。
妻の君子さんに日本の道場を任せての単身赴任である。だがその年の暮れに学校をやめて自分の道場を持った。
ケガを恐れる学校で教えるのでは、強い選手が育たないからである。
空手の好きな生徒だけを十分に鍛えてやろう。気の出し方も伝授しよう。意欲は満々だったが、この希望はすぐに崩れた。
強いと聞いて挑戦してくる人たちの相手をしていれば、毎日死闘を続けなければならない。
気の力で大男を何人も吹き飛ばす新倉氏を見た人たちは、それを習いたいとしつこく申し込んできた。
今でも30人から40人が弟子入りを志願してくる。気を格闘技に使おうとする人が圧倒的だ。
気を出す術を身につければ、大風が大木を倒すように馬鹿力を出せる。大男を何人もすっ飛ばすなど簡単なことだ。格闘技の選手がこれを身につけて勝つために使うことがあれば危険きわまりない。
気は格闘技ではない。 収入になるクラスを弟子に任せたのは、こういう連中と接したくないことも大きな理由だった。
一文の収入もなかった道場設立当初は、レストランの残飯を拾って食べ、夜は電気を消し、トイレの手洗い場のお湯で体を洗ったこともあった。その時の見栄は捨てた。自分の納得のいく生き方をすることにしている。
ミシガンに来た年に、64年オリンピックのヘビー級レスリングで優勝した杉山選手に会ったことも大きな節目だった。
“東京ジョー”の名で全米で恐れられていた杉山選手は、勝ちさえすれば、という試合をしていた新倉氏をわざわざ招んでこう言ったのだ。
「生きて帰ろうよ、二人で。死んではいけないよ。」
戦うだけの空手と和を尊ぶレスリングの違いだと肝に命じた新倉氏は、この言葉によってその後の人生を変えたのだった。
「気は治療のためだけに使う」は、今の新倉氏の信念になっている。
今は、気のクラスだけを指導している。ただし弟子入りに際しては、厳しくその動機を探られる。医療以外の目的があれば弟子入りは許されない。
「気の出せる人を千人作ろうと思ってます。それぞれが一日10人気で治療すれば毎日一万人の病人を薬なしで治せますから。」
今クラスにいるのは、気で難病から回復し、感謝の気持ちで他の人を治してあげたいと願う人とその配偶者、心理学者、教師、主婦など25人ほど。
弟子同士がペアになり、グループになってお互いに気を出したり、受けたりしている。
習い始めて3週間目という女性も大男2人を楽々と吹き飛ばしている。
「気のでる人は超能力の人ということになっていますが、私自身は自分で考えて気が出せるようになりました。3週間もあればだれにでも伝授できます。」
単身アメリカにいる新倉氏の今の課題は、病状や病気の部分に応じた気の送り方だ。
肩なら機織りのように、腹なら魚釣りのように…。
鏡や電話線を使う送り方も研究している。 朝は5時に起きて庭に出、ひっそりと息ずいている樹木とエネルギーの交換をする。
「木は3千年も生きます。たとえ枯れてもそのエネルギーはなみなみと残っている。仙人たちが木の杖を持っていたのは、そのことを知っていたからだと思います。」 枯れ木も気の有力な伝達手段として使われている。
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